未来 — 「いつ」を、条件つきで語る。
実現時期の予測はこの分野で最も誤解されやすい話題である。この章では、まず主要な予測を出典・根拠つきで並べ、 次に「どの中間目標がどの順で必要か」という依存構造に翻訳する。年号ではなく条件で未来を読むのが本章の目的である。 年ごとの物語が読みたい読者は別冊シナリオ 2026→2050へ。
4.1 Forecasts
予測の総覧 — 誰が、いつ、何を根拠に。
| 予測者(年) | ヒトWBE実現時期 | 根拠の型 | 現在から見た評価 |
|---|---|---|---|
| モラヴェック(1988)1 | 2030–40年代 | 計算能力の外挿 | 計算の外挿はほぼ的中したが、スキャンとモデル化を過小評価 |
| カーツワイル(2005/2024)2 | 2030年代スキャン、2045前後 | 指数曲線の総合外挿 | 2024年の新著でも2045年を維持。スキャン2030年代は現状と乖離が大きい |
| サンドバーグ&ボストロム(2008)3 | 日付を明示せず(条件つきで今世紀中頃以降) | 技術ツリー分解 | 方法論として現在も標準。日付を約束しない姿勢ごと参照されている |
| ハンソン(2016)4 | 「今後100年のどこか」 | 経済学的必然性 | 時期を賭けず帰結を分析する構え。社会像の標準文献 |
| 渡辺正峰(2019–)5 | 2040年前後(20年以内目標) | BMI接続による漸進移行(スキャン不要路線) | 本人も「目標値」と位置づける。前提となるBMI帯域・意識の自然則の解明が未達 |
| Metaculus 予測コミュニティ6 | 中央値 2070年頃 | 集合予測(数百人) | 2020年代を通じて概ね2060–2080のレンジで安定 |
| デジタルマインド専門家調査(2025)7 | 2100年までに65%(デジタルマインド全般) | 67人の専門家サーベイ | WBEに限らない広い定義。原理的可能性は中央値90% |
| State of Brain Emulation Report(2025)8 | 最短でも30–40年(≈2055–65以降) | 3能力の進捗棚卸し | 現時点で最も体系的な「内側からの」見積もり |
| Eon Systems(2026)9 | 時期非公表(ヒト規模を目標と明言) | 企業ロードマップ | ハエ実証は本物だが、対外発表は投資文脈を含む点に留意 |
| 本サイト別冊シナリオ | 2050(条件つき) | 楽観側の条件を全て満たした場合の思考実験 | 予測ではなく「何が揃えば最速でこうなるか」の可視化 |
予測は「楽観的な内部関係者(2040–50年代)」「集合知・外部評価(2060–80年代)」「懐疑的神経科学者(22世紀以降・原理的不可能を含む)」の3群に分かれる。分布の広さ自体が、モデル化と検証の不確実性がまだ桁で残っていることの正確な反映である。
4.2 Dependencies
依存マイルストーン — 何が何を待つか。
ヒトWBEに至る経路は、およそ次の順序の中間目標に分解できる(各時期は推定であり、幅の広さがそのまま不確実性)。
| # | マイルストーン | 状況と推定時期 | これが遅れると… |
|---|---|---|---|
| M1 | 同一個体の「全脳活動+全脳構造」データセット(ゼブラフィッシュ) | 公開間近(2026–27) 活動は取得済み、コネクトーム再構成中10 | 「構造から動態を推定する」研究全体が足踏み |
| M2 | 検証つきハエ・エミュレーションの成熟(学習・神経修飾を含む) | 進行中(〜2030) 2026年の身体化実証の拡張 | 「構造だけで十分か」の答えが出ず、上位種への投資判断ができない |
| M3 | マウス全脳コネクトーム(≈7×10⁷ニューロン) | 2030年代前半〜半ば(資金・自動化次第) 10mm³パイロット進行中11 | 以降すべてが後ろ倒し。最大の単一ボトルネック |
| M4 | 検証されたマウス・エミュレーション | M3の5–10年後 行動+摂動ベンチマーク合格が条件 | ヒトへの外挿に科学的根拠がないまま |
| M5 | ヒト全脳スキャン技術(保存脳、1–2ゼタバイト級) | 2040年代以降 マウス比でさらに約1,000倍 | 保存だけが進み「読めない脳の在庫」が積み上がる |
| M6 | ヒトWBEの実行と検証 | 最速2050年代、中央値2070年頃 | —(ここが終点。ただし同一性・意識の問いは残る→第5章) |
推定時期はどう出したか — 4つの外挿則
上の表の年数は勘ではなく、次の4つの経験則から導いている。計算過程の全文と各フェーズへの適用は別冊の「年号の根拠」にある。
| 則 | 実測から得られる傾き | そこから出る帰結 |
|---|---|---|
| ① 規模則 全コネクトームの最大ニューロン数 |
長期(1986→2024): 0.070 桁/年 直近(2020→2024): 0.187 桁/年 |
ハエ→マウスは2.70桁。直近レートなら14年(2038年)、長期レートなら39年(2063年)。マウス→ヒトは3.09桁で直近レートなら約16.5年 |
| ② データ量則 H01: ヒト皮質1mm³ = 1.4 PB17 |
体積に比例 | マウス全脳 ≈ 0.7 エクサバイト、ヒト全脳 ≈ 1.7 ゼタバイト。現行EMではマウス全脳の撮像だけで10年超との試算18 |
| ③ 計算則 TOP500首位の推移20 |
0.21 桁/年 (2008 ペタ → 2022 エクサ) |
スパイキング水準(10¹⁸ FLOPS)は到達済み。電気生理水準(10²²)は4桁上で2041–45年頃。計算は律速ではない |
| ④ 校正則 自動再構成後の人手編集量 |
ハエ13.9万で延べ数十人年19 | マウスへ単純外挿すると1万人年規模で成立しない。唯一「外挿ではなくブレイクスルーが要る」則であり、M3の実質的な律速 |
- 計算資源はもう問題ではない。 ③より、ヒト全脳を高解像度で走らせる能力は地図が揃う時期と自然に一致する。2010年代までの「計算が足りない」という語り口は、すでに時代遅れになっている。
- 不確実性はM3(マウス)とM4(検証つきエミュレーション)に集中する。 ①の直近レートを信じるか長期レートを信じるかで、マウス全脳だけで25年の差(2038年か2063年か)が出る。この一点が下流のすべてを支配する。
- 予測の分布は、この2択の反映である。 楽観側(2040–50年代)は直近レート+④のブレイクスルーを織り込み、集合知(2070年頃)は両者を保守的に見る。予測者の意見が割れているというより、同じ数式に別の係数を入れていると理解するのが正確である。
4.3 Factors
加速要因と減速要因。
AIによる自動化
セグメンテーション・校正・シナプス検出・動態推定のすべてがAIの得意分野。ハエ全脳を可能にした最大の要因であり、汎用AIの進歩がそのままWBEの速度に転写される。
民間資金と競争
Eon・E11・Google等の参入で、公的予算の変動と独立に前線が動く構造ができた。BCI産業の成長は読み出し技術の量産化を牽引する。
保存需要の顕在化
「先に保存しておく」選択肢が制度化されれば、時間制約が緩み、スキャン技術の成熟を待てるようになる(倫理的争点も同時に拡大)。
モデル化の科学的未知
静的構造からシナプス重み・神経修飾状態を復元できない場合、地図が完成してもエミュレーションは動かない。現在のところ最大の不確実性(第2章2.3)。
倫理・規制の未整備
動物エミュレーションの福祉、ヒト保存の医療化、失敗エミュレーションの苦痛リスク(第5章)が未解決のまま進むと、社会的反発が研究自体を止めうる。
4.4 WBE × AGI
AGIとの関係 — 競合し、加速し合う。
2020年代のAIの進歩は、WBEの意味を変えた。3つの関係を区別すると整理しやすい。
- 競合(AGI first) — 汎用AIがWBEより先に到達するのはほぼ確実な情勢で、「人類レベルの機械知能を作る手段」としてのWBEの意義は薄れた。人材・資金・計算資源もAIに吸引されている。
- 補完(安全経路としてのWBE) — 一方でAI安全の観点からは、人間の価値観と認知構造をそのまま持つ「デジタル人間」は、素性の分からないAGIより整合的(aligned)な高知能の実現経路になりうるという議論がある1314。2023年以降、Foresight Institute等がこの文脈でWBE研究の加速を提唱している15。
- 加速(AIがWBEを作る) — 実務上はこれが支配的。コネクトーム再構成・動態推定・実験計画のAI自動化が、上の全マイルストーンの所要時間を圧縮する。「AGIが来るならWBEは不要」ではなく「AGIが来るほどWBEは速くなる」のが実際の力学である。
ロードマップ自身が指摘した通り、WBE研究の副産物(脳に着想を得た学習アルゴリズム、ニューロモルフィック基盤)は、完全なエミュレーションの前に強力な「脳型AI」を生む可能性がある3。WBEを安全経路と見なす立場は、この途中生成物の管理まで含めて初めて成立する。
4.5 After
実現後の社会 — 標準的な論点。
- 経済 — ハンソン『The Age of Em』は、コピー可能・可変速のエミュレーション労働力が賃金を生存水準へ押し下げ、主観時間の階層社会を生むと分析した4。「コピーに要する限界費用がほぼゼロ」という一点から、労働・人口・都市の構造が根本的に変わる。
- 規模 — 2025年の専門家調査では、最初のデジタルマインド誕生から10年以内に、その集合的な福祉容量(快苦の総量)が数十億人分に達しうるとの見通しが示された7。福祉・権利の制度設計は「少数の実験体」ではなく「人口規模」を前提に必要になる。
- 格差とアクセス — 初期のアップロードは極めて高価と予想され、「誰が保存され、誰が走らされるか」は資産・地域・制度に依存する。デジタル不死が階級財になるリスクは、SFではなく政策課題として扱われ始めている。
- ガバナンスの未整備項目 — コピーの法的地位、停止・削除の可否(死の再定義)、選挙権と人口算定、労働規制、刑罰、相続。どの法域にも現行法の受け皿がない(第5章で詳述)。
これらの論点が年表の形でどう立ち上がるかは、別冊シナリオ 2026→2050の後半(フェーズ4〜6)で物語として描いている。シナリオの結末は「継続」と「複製問題」の2ルートに分岐する——その分岐の哲学的中身が次章の主題である。
4.6 Summary
この章の要点。
- 予測は2040年代(楽観的内部者)〜2070年頃(集合知)〜さらに先(懐疑派)に分布。分布の広さはモデル化・検証の不確実性の正確な反映であり、単一の年号を信じる理由はない。
- 年号よりも条件で読む: 最大の単一ボトルネックはマウス全脳コネクトーム(M3)と、その先の検証されたマウスエミュレーション(M4)。ここまでの進み方でヒトの時間軸はほぼ決まる。
- AGIとの関係は「競合」ではなく実務上は「加速」。同時に、WBEを安全なAI経路と位置づける議論と、途中生成物(脳型AI)のリスクが表裏で存在する。
References / 文献
第4章の文献(20件)。
- Moravec, H. (1988). Mind Children. Harvard Univ. Press.
- Kurzweil, R. (2005). The Singularity Is Near; (2024). The Singularity Is Nearer. Viking.
- Sandberg, A., & Bostrom, N. (2008). Whole Brain Emulation: A Roadmap. FHI.
- Hanson, R. (2016). The Age of Em. Oxford Univ. Press.
- WIRED Japan (2023). 「20年後までに、人間の意識を機械にアップロードせよ」——MinD in a Deviceと渡辺正峰の構想.
- Metaculus. Date of first human whole brain emulation(コミュニティ予測).
- Caviola, L., & Saad, B. (2025). Futures with digital minds: expert forecasts in 2025. arXiv:2508.00536.
- Zanichelli, N., et al. (2025). State of Brain Emulation Report 2025. arXiv:2510.15745.
- Eon Systems. 公式サイト(ハエ実証とヒト規模目標の表明).
- Google Research (2025). ZAPBench(ゼブラフィッシュ全脳・コネクトーム構築中).
- Google Research. マウス海馬10mm³計画(BRAIN CONNECTS).
- The Transmitter (2025–26). BRAIN Initiative予算の削減と回復.
- Karnofsky, H. (2021). How digital people could change the world. Cold Takes.
- Mineault, P., et al. (2024). NeuroAI for AI safety. arXiv:2411.18526.
- Foresight Institute. Whole Brain Emulation Workshop(2023–, AI安全文脈でのWBE加速提言).
- Kokotajlo, D., et al. (2025). AI 2027.(別冊シナリオの形式上の参照元)
- Shapson-Coe, A., et al. (2024). A petavoxel fragment of human cerebral cortex reconstructed at nanoscale resolution. Science, 384, eadk4858.(1mm³ = 1.4PBの出典)
- BioTechniques (2024). Building a comprehensive mouse brain connectome.(マウス全脳の所要年数の試算)
- Notable progress has been made in whole brain emulation (2025). LessWrong.(FlyWireの校正工数の二次分析。査読外の推定であることに注意)
- TOP500 Supercomputer Sites. 首位性能の推移.